19.
硝子越しの月の光は、幾分か冷たさを減じているように、瑞希は感じた。
こうして、冷たい人が作った建物の中にいるよりも、緑と土に囲まれた場所はとても心地が良かった。
緑の匂い、土の匂い、空気の匂い。
小さな虫達は、人の世界など知らず、自分たちの生き方を全うしている。
指の先に乗ってしまうほど小さな体なのに。
「まあ……その事に悩んでいらしたのですね。」
ゆっくりと言葉を紡ぐその声が、妙にくすぐったく感じて、瑞希は知らず顔を赤く染めた。
どうして、恥ずかしいと思うのだろうか。
「本当は、その状況から助け出したほうが、他の人も思うのでしょうが…。」
言葉を、濁す。
瑞希は、椎樺に夕紀とそしてその状況の話をかなりかいつまんで話した。
無論、椎樺が混乱しないように、夕紀の素性は勿論、夕紀と出会ったのが彼女の夢の中だとか、その理由が未知の珠獣であることなどは伏せた。
椎樺は土いじりのための手袋を外し、布でまとめていた白髪の髪を下ろした後、何かを考え込むように腕を組む。
その様子を少しだけ見た後、瑞希は側に生えていた草の葉を手に取った。
自分の体温よりもひやりと冷えた、葉の感触が、何故だか懐かしい。
何故だろう、夕紀の夢の中で一回は確実に触っているというのに。
「あなたが数日の間眠っていたのは、そのことと関係が有るのでしょう?」
その違和感の理由を瑞希が思いつく前に、椎樺が口を開いた。
いつの間にか敬語が取れているのは、彼女の中が「本気」に切り替わった証拠だった。
いつもは柔らかな人だが、実際は凛然たる精神を持つ人だった。
但し、この城の中では瑞希しか、その面を見たことは無かったが。
王子のお気に入りだとはいえ、単なる庭師と深く関わろうとする人は滅多にいなかった。
その例外は、彼の姉君と、一度城に帰るときに連れて行った彼の先輩だった。
実を言うと、彼らは椎樺の本質を見抜いたのではなく、瑞希の態度が他の人とは微妙に違うことに気が付いた為だったのだが、当の本人はその事を知る良しもなかった。
「……やはり、分りますか。」
「人の噂には、どんな門番も役には立たず、助長するのみ、ですよ。」
伏せていたとはいえ、一日もたっていない事と、瑞希の話していたことを結びつけるのは、容易なことだった。
しかも、どうやら鈴香が城の人々に言いふらしたというには言葉が悪いが、瑞希が数日眠っていることを大げさに言っていたのは、瑞希自身も侍女の口から聞いていた。
そう言えば、あの時は鈴香を邪険にしてしまい、その後いろいろと資料や文献をひっくり返すために、もう一つの自室に篭ってしまった。その為どうして鈴香がこの城にやってきているのかを聞きそびれてしまった。
確か、彼女は自分といとこの関係ではあったが、昔彼女の両親と父王との間の揉め事か何かで、王都から一日程度離れた自治省に住んでいたはずだ。
未だその遺恨の所為で、瑞希は彼女の両親の顔は見たことが無かったが、子供に罪は無いということで、幼少の頃少しばかり城に住んでいたのだが、瑞希が王都から離れて、宿舎付きの学校へと行くようになると同時に、故郷へと帰って行ったはずだった。
その後顔を合わせたのは、実は今日が初めてだった。
しかし、なにか昔とは違うような。
「貴方がその娘を助け出すのを止めたいと思うのは、自分自身に危害が降りかかるからですか?」
凛とした声に、瑞希ははっと我に返った。
白髪の髪に、皺の数が多い顔、節だらけの手。
何処からどう見ても、簡素な服と相まって、下働きの老女にしか見えないのだが、その目は真っ直ぐ瑞希を見据えていた。
「違います。」
この質問に躊躇してはいけない。
瞬間にその事を悟った瑞希は、間髪入れずに答えた。
口に出す言葉を少しでも考える時間は無かった。
だが、不思議と、何も考えずに出てきた言葉に後悔は無かった。
それどころか、胸のうちがすっと静まるような感覚を、瑞希は覚えた。
瑞希の答えを聞いて、椎樺の表情が綻んだ。
「貴方の答えが決まっているのならば、私が口出しするようなことはありません。」
そして瑞希の手を取る。
瑞々しい若者の手と、皺の寄った老婆の手の違いは歴然だった。
それでも、瑞希はその皺だらけで節だらけな手に、かなわないと思った。
「思ったとおりにおやりなさい。それが失敗であるとか、間違っているとか、そう言われるのは、その事をやり遂げた後。私は、いつまでも貴方を応援するなどと、無責任な事を言いません。間違っていると感じたならば、素直にそう言います。」
はっきりと物怖じも無く言う言葉に、もう二人の身分の差など無かった。
「貴方は確かに他の人たちよりも、多くの力を持っています。ですが、それが他の人と何が違うのでしょうか?」
椎樺は言葉を区切ると、地面の上から何かを掴んだ。
じたばたと足をもがくのは、不思議な色合いの緑色の硬い羽を持つ、小さな小さな甲虫。
虫けらと一絡げに呼んでしまう人の感性が不思議に思うほど、小さな体には整然した美しい形の足も眼も口もある命。
「こんな虫も殺せないように思われている他愛も無い老婆も、木々を、花々を守る為に、毛虫を殺します。」
そう言うとぱっと甲虫を親指と人差し指で挟んだかと思うと、次の瞬間、指と指が離れ、挟まれていた甲虫はあっという間に羽を広げて飛んでいってしまった。
月の光がきらりと甲虫の羽を透かして光ったのが見えた。
「これが悪という人も必要悪だという人も、いるでしょう。正しいのかと正しくないのか。誰もがそう言うことが出来て、誰もがそう言うことは出来ないものなのです。だからこそ、考えることを放棄するのはいけません。結果など、誰にも分りはしないのです。」
「相変わらず、手厳しいですね。」
思わずぼやいてしまうと、椎樺は快闊そうな笑いをした。
その笑い方が、あまりにも明るいので、瑞希もその事に嫌悪感を覚えるどころか、毒気を抜かれて老女の顔をまじまじと見る。
「瑞希様。まだ貴方はお若いのですから、たんとお悩みなさい。それはきっと貴方を裏切りませんよ。」
「そういう、ものでしょうか?」
なんだか煙に撒かれたような気がして、瑞希は視線を移動して、目の前にある月秦華の花を見る。
いつの間にか全ての花弁が開き、少しだけ黄色に色づいた白い花弁は、月の光を受けて煌いていた。
彼女に……似ているような。
そんな思いが一瞬よぎったが、瑞希はさしてその思いを留めず、まるで子供のようにずっと、夜が明けるまで一夜限りの花を見ていたのだった。
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