
8
夕紀は自分が降り立った場所の、その現実離れをした光景に目を見開いた。
「うわ、すご…。」
それ以上の言葉が出ない事を夕紀は頭の片隅でイヤに思ったが、それ以上にその光景を見るのに夢中だった。
壁が湾曲しているというよりは、歪んだ球体の内部のような部屋の中は、ほのかに青白く発光する液体が溜まっていた。
そして水とは少し違うなにか艶かしい匂いが、充満していた。
壁も一見黒一色のように見えて、実は目を凝らすと、所々雨が降っているように見える銀の線が細く上から下へと走っていた。
「階段が産道だったら、さしずめここは子宮の中ってことかな…。溜まってるのは羊水かも。」
夕紀はしばらく部屋の様子を、水際の近くにある段に座って眺めていた。
「これって、足入れても大丈夫…?」
発光している液体だが、そんなにも明るくは無いのと、透き通っているので、床が見えて浅いというのは分かるが、今まで見たことも聞いたことも無い光る液体に足を突っ込んでも大丈夫かどうかが分からなかった。
「でも、帰り道ないし……ここでずっと座っているのも…いやだしなあ……。」
じっと自分の足元近くにある水面を見つめる。
そして、えいっと掛け声と共に指を液体の中に突っ込んだ。
目をぎゅっと瞑って何が来るか指を突っ込んだまま、じっと戦々恐々の面持ちで待っていた夕紀だったが、何も起きなかったので目を開いた。
それどころか、液体につけた指がじんわりと温かくなってくるように感じた。
「これって、入っても大丈夫……だよね?」
夕紀はそう言いつつも思い切って靴を脱いで両足を突っ込んでしまう、そんな思い切りが良すぎる所が真昼に「一見慎重そうにも見えるけれども、実際の所、イロイロなものにいつの間にか突っ込んでて、周りがとても苦労する、困り者のじゃじゃ馬姫」と苦笑交じりに長々と説明付きで言われてしまう所以だった。
じゃぶじゃぶと水しぶきを足元で立てながら、夕紀は部屋の真ん中まで歩いていく。
「何にも無いのかな……痛っああっ!?」
ほぼ中央まで来た時、夕紀は素足に硬い石のようなものを踏んでしまい、その痛みと驚きで派手に尻餅をついてしまった。
盛大な水音が壁に反響して、大げさな音を聞いて夕紀は赤面した。
「靴脱いでせっかく濡れないようにしたのに……。」
そう言いながらも夕紀は自分が転んだ原因を、液体の中から引き上げた。
「……ペンダント?」
青白く光る液体の全ての蒼を凝縮させたような大きな珠に、銀の金具が上下についていて、茶色の紐が夕紀の濡れた指の間から垂れ下がっていた。
夕紀はその蒼に惹かれ、見つめ、そして魅入られてしまった。
ばしゃりと水を打った音も、床に倒れた時の衝撃も、夕紀は感じることは無かった。
くぐもった声。
よく、聞こえない。
誰だろう。
泣いているのは。
泣いているのは?
そうだ。
よく、聞こえはしないけれども、これは、きっと、誰かが鳴く声。
鳴く声?
そう。
誰かが、誰かを呼ぶ声。
誰だろう。
けど、寂しいのならば、悲しいのならば、慰めてあげたい。
一緒に居てあげたい。
たとえ呼んでいる誰かが、私でなくとも。
そう思ったとたんに、夕紀の意識は急に覚醒した。
「……えっ?」
ぱちりと目を開いた視線の先の視界は、真っ白な光で天井があるのかすらも分からなかった。
夕紀はとりあえず起き上がると、周りを見渡した。
何処までも続く白い空間が彼女の周りにあった。
足で立っているはずの床も影が出来ていなくて、あまりにも現実感に欠けた空間だった。
「さっきの場所から、こうなったってのは……考えにくいよね……。」
音も夕紀の喋る声以外は、彼女が着る服の布が擦れる音ぐらいなものだった。
何も無い空間。
こんなにも空虚な空間を、夕紀はひとり歩き始めた。
「足音も無いなんて……なんか歩いてるって感じが、しない。」
足元の感触も、ふわふわと浮ついているような感覚で歩きにくい。
こういった状態が出来るのは、検討は付いてはいたけれども、それにしては自分の思考はあまりにもクリアだったので、口に出すのははばかれていた時、不意に夕紀の視界の端に何かが見えたような気がした。
「これって、卵?」
独特の形の球にも似た物体は、透き通るように真っ白で、微かな違和感に気が付かなければ見逃してしまうほど、静かに白い風景に溶け込んでいた。
夕紀はその物体に近付き、手を当ててみた。
「……暖かい。」
誰もいないと思っていたところに、不意に現れた物体の暖かさは、夕紀に生き物の暖かさを思い起こさせた。
「そうね、生きてるから。」
不意に後ろから自分以外の声が聞こえ、夕紀はびくりと肩を震わせ振り返った。
「だ、誰……?」
そこには、まるで現実味の無い沁み一つ無い白いローブを目深に被り、性別すらも分からない人が立っていた。
「それは、今貴方には関係が無い。貴方は選択しなければならない。」
行き成り選択肢を突きつけるその声音は、乾ききっていた。
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