
6
明るいテラスの雰囲気とは裏腹に、瑞希の心はどんどん憂鬱になっていた。
心苦しい状態に背を向けるように、奥に控えている侍女が先ほど丁寧な手つきで注いでくれた茶が入った茶杯を持って、一口飲んだ。
山塔省の紫香茶の特一級品か……。
瑞希はいつの間にか茶の銘柄を推測している自分に気が付いて、更に憂鬱になった。
そんな瑞希の心など知っているのか知らずにいるのか、小さな卓の向かい側に居る姉は優雅な手つきで茶を飲んでいた。
別に姉は嫌いじゃないし、実際頼りになると思うし、とても信頼の置ける人である。
何よりも家族の愛情としては、両親よりも多いと思う。
だから、本来なら素直に姉が帰ってきたことを喜びたい。
しかし……。
瑞希が悪い癖で深く思い悩もうとするのをさえぎるように、緋奈多は口を開いた。
「元気にしていたか?いや、瑞希の場合は音沙汰無いことが元気の証拠だとは分かっているけどな。」
さばさばとした男口調の緋奈多だが、皇太子や軍人であるという以上に、誰もがその口調に性格があっているということを親しいものならばよく知っているので違和感はさほど無かった。
が、少しだけ違和感が緋奈多の態度から感じ取った瑞希は、若干眉を顰めて聞いた。
「そういう姉さんは?」
瑞希はワザと言葉を強調して言う。
緋奈多の口調に合わせるように、本来の自分の口調に似たものに変化しているのは、こういったごく私的な場所のみだった。
「こうして、私が予定よりも早く帰還してきたことからも、分かるだろう?」
そういうと緋奈多は行儀が悪いことも気にせず、卓に両肘を付き、目の前で手を組んで低い声で言った。
「私が遠征して行った先の小規模の内乱。それが、どうも思った以上に小規模すぎる。」
そして、瑞希はその言葉の続きを言った。
「で、思った以上に計画的というか、周到でありつつ引き際が鮮やかだった、と。」
そういうと、緋奈多はうーと唸って頭を抱えた。
その様子を見て、瑞希は軍部の最高幹部クラスが見たならば唖然とする姿だろうな、と密かに思った。
普段の彼女ならば、今日再会した姿のような凛々しい姿であるのだが、反面非常に脆い面がある事を弟の瑞希は知っていた。
挙句の果てにはしたなく机に突っ伏した緋奈多は、まるで亡霊のような声で弱々しく言った。
「そこまで確信的じゃないんだ……。自分の勘以上に抜け出せないから、参っているんだよ。具体的に指示が出せないからな。」
この国の軍の最高トップでも、証拠無しで動かせるほど権力を持っていない。
せいぜい、通常警備の強化する程度だった。
ただし、非常事態になれば権限の範囲は大幅に拡大するが。
「とりあえず、姉さんと同じような考えを持っている人を集めてみればいいと思う。もしも非常事態に陥ったときに、上の混乱が少なくなるかもしれない。」
瑞希は自分の助言が意味の無いものと知っていて口にする。
「そうだな、それしかないか。……ありがとう、瑞希。」
緋奈多は自分が考えたことを瑞希が支持してくれたことに、笑顔で礼を述べた。
その時、瑞希は俯いて綺麗な水色の茶の表面に映る自分の顔を見た。
とても不健康な表情で、呟いた。
「ごめん、私が側に居れなくて。軍に入らなくて。」
俯く瑞希の頭を撫でたのは、一呼吸置いてからだった。
少々荒っぽく撫でる緋奈多の顔の笑顔と悲しさが交じり合った表情を瑞希は見ることは無かった。
「別に瑞希が気にすることは無い。せっかく、自由になれる力があるんだから、有効に使いなさい。」
瑞希は緋奈多の愛情の篭った言葉を、上手く受け取ることが出来なかった。
王族には、国ひいては国民の幸せを守る義務がある。
それは緋奈多のように軍を率いて、外の脅威や内の危機に戦うことや、両親のように豊かな暮らしと暮らしの基礎となる律を正したり作ったりする事だった。
だが、瑞希はオウルの力を言い訳にして、義務の放棄に近いことをしていた。
確かに人々の暮らしの助けになるような事はしているが、瑞希はただの偽善的な趣味の範疇に過ぎないと考えていた。
義務から逃れるためには、瑞希が王族から離れればいいことは分かっている。
だが、瑞希はその方法を試すことは、あまり気乗りではなかった。
「ごめん。」
瑞希はただ一言、そう言って部屋から立ち去った。
優柔不断な自分で、という言葉を飲み込んで。
音も無く、月の光が差す部屋に瑞希は立っていた。
来た時に無音だったのは、小さくは無い部屋に厚い砂漠の民が何年もかけて紡ぐ異国情緒にあふれた厚みのある敷物が敷かれていたからだった。
白いというよりも青い月光は、光量は少なかったが、部屋をくっきり明暗に分けていた。
ここがもう一つの、「王子」としての瑞希の部屋だった。
部屋の使用方法のため、部屋の調度品や家具は、一見地味なように見えるが、その実触れればくっきりと指紋が付くほど磨かれ、その価値は俗世間からかけ離れているようなものであった。
だが、瑞希がそういった部屋に居た時期は、幼児期以外はほぼ無かった。
城に居ても、大概は半地下の部屋に篭りっきりという生活が多かった。
「……下で使うわけにも……行かないしな……。」
瑞希は二本の黒い羽と、銀の小さな筒が付いた鎖と大きな紙が握られていた。
瑞希は寝室に入ると、天蓋つきの寝台の側の床に持ってきた紙を広げた。
そこには先ほどまで半地下の部屋で、瑞希が描いた魔法陣と術式が描かれていた。
この世界の魔法の仕組みは、世界中の人が感知できない力を使う方法である。
人が感じられる光・熱・力以外の感じることの出来ない力が3000の3000乗倍あると言われ、言葉や図・時には血によりその力を導く導線を使い、媒体となる物質や自分の肉体を使い、発現させる技術だった。
但し、その技術の原理は珠獣が生まれた頃よりも更に古代に出来たとされ、度々なる世界中の混乱により現代の魔術師達にとっては失われた知識となっていた。
現代の魔術師達は、導線と媒体の組み合わせや変質によって力の発現を変化させるのが、関の山だった。
その発現の範囲も力も質も、古代の遺物である珠獣にははるかに劣るシロモノだった。
常に珠獣の力が流れ込む瑞希は例外中の例外であるが。
魔方陣の基本的な図の大きく黒いインクで記された丸の中には、流れるような筆記体と図形に彩られていて、瑞希はその中央に夕紀の髪が一本入った銀の小さな筒を置き、鎖を上下に分けるように配し、オウルから貰った二本の黒い羽は横に羽のように見立てて置いた。
そして、人差し指を円の縁に置いた瑞希は、目を閉じ、先ほど置いた物の微調整を行った。
複雑な術を初めて発現させるには、なるべく他の力の影響を受けない場所で調整を行わなくてはいけないので、この部屋は魔術の再調整のために瑞希はもっぱら使っていた。
瑞希が止めていた息を吐いたとき、ぼうっ…と導線を巡りきれなかった力が光として出てきた。
その反応を見て、瑞希は思わず満足そうな笑みを零した。
前の術は単に夕紀の夢の中に押し入ることぐらいしか出来ない、単純なものだったが、今回作ったのはそれよりもはるかに出来ることが多いだろう。
そう思って、瑞希は夜着に着替えて寝台の上で眠りに落ちた。
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