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とある時、とある場所、小さな国のお話。
貧しいながらにも、とても貧乏と言うとそうでもなく、近くの大国たちには、征服するほどでもないと思われるほど、田舎で辺境の小国は、穏やかな時間をゆっくりとゆっくりと刻んでいた。
その国の王は優しく誠実な人柄が民草の人望厚い国王で、その王の亡き王妃の忘れ形見の皇太子は勇猛で武芸に秀で、二番目の王子は沈着で学問に精通し、長女である姫君は、可憐で歌や芸事に長け、なによりもすばらしき美貌を兼ね備えた姫であり、末の王子は愛らしさで城の皆に慕われていると言われている。
そんな国でのお話。
そして、先ほど言ったことに、一個だけ重要なことが抜け落ちている事を知る人は、一握りの人だけだった。



淡い木漏れ日がなんとも美しい森の中、少年は目を細めた。
綺麗は綺麗なのだが、その綺麗さに上手く視界の悪さが隠されてしまっていた。
これでは、直ぐに見つけられない。
少年は心のうちで少し悪態を付くと、すっと右手を差し出した。
だが、その指先が木漏れ日の一筋に触れたとき、少年はパタリと腕を下ろした。
「無駄だな…ここでは。」
そう独り言を言うと、静かに歩き出した。
疎らに生える草を無造作に踏み潰す靴は、一見何の飾りも無いものではあるが、とても仕立ての良いものであることは、見るものが見ればよく分かるものだった。
少年の纏っていた衣は、いたって質素で、学生が着ている制服のように禁欲的な雰囲気だった。
しばらく歩く間もなく、何処からか小さな歌声が聞こえてきた。


空は貴方の希望に光り輝き、冷たい雨の雫も光によって輝き始めるでしょう。
悲しみの刃を貴方の身の内から、引きずり出すことこそ恐れることですが、それでも私は恐れずその刃を抜きましょう。
例え私の手が血にまみれようとも。
私は貴方の希望を、貴方の自由を、貴方の幸せを祈っているから。


あまりにも何処かで聞いたかのような歌詞を切り貼りしたような歌であると、少年は思った。
しかし、あまりにもその歌がちぐはぐとした部分の連なりである事を少年は感じ取った。
一言で言えば、そのパーツは全て凡人の域でしかないが、それなのに人を惹きつけるような歌声に、返って少年は疑問を抱いた。
だが、それ以上のことを考える前に、唐突に歌が途切れた。
「そこにいるのは、誰!?」
歌声よりも幼い印象の声が森の中に響いた。
ほぼ予期していた言葉がゆっくりと森の中に消えていったのを見計らって、少年は静かに答えた。
「お前が知らない者だ。」
少女はそれが予期していない言葉だったのか、零れるような大きな瞳を見開き、更に大きくして、呆けたような声色で言った。
少年が何も言わずに少女の動きを見守っていると、その言葉がからかいだと受け取ったのか、見る見るうちに真っ赤に顔が染まって、ぱくぱくと口を何回か動かす。
少年は黙ったままその様子を観察していた。
「お前では悪かったか?それでは、『君』にしようか?」
少年はワザと見当違いの方向の言葉を口にするが、少女は青年が顔色も変えずに言うものだから、赤みがさした顔は元に戻り、『何この人』という文字を大書書きした表情に変わった。
そして、どこか警戒しているように眉根を寄せながらも、少女は言った。
「貴方のお好きなほうで。でも、私は夕紀という名があるんです。…まあ、別に、何でも良いんですけど…。」
最後のほうは若干歯切れが悪くなった。
どうやら、啖呵を切るような形では言ったものの、彼女自身がそのような物言いに慣れていないという証拠だった。
よく表情、いや感情が変わる娘だと思いつつも少年は言葉を返した。
「では、夕紀と呼ぼう。一応、私の名も聞くか?」
「あ、それ聞くの忘れてた!」
いつの間にか堅苦しい口調から、砕けた口調に変わったが、少年は気にも留めなかった。
どうやら、それが少女の素の姿であることだろうと確信めいたものを感じたからだった。
「私の名前は瑞希だ。」
そう言ったとたん、木々の向こうからどすんという振動が伝わった。
その振動は一瞬にして夕紀の顔色を変えた。
「ああっ!!エルフを起こしちゃった!!!」
「エルフ…?」
鸚鵡返しに夕紀が言った名前を瑞希が言うと、夕紀は困った顔をして言った。
「多分あなたが”ここ”に侵入したから、エルフ怒ってる……。早く出て行かないと…!!」
「もう遅いな……。」
瑞希は夕紀の後ろを見上げた。
淡い葉の緑の中から出てきたのは、巨大な蒼い象。
見上げるほど巨大な象は、優に大人の三倍の高さはあり、緩やかに団扇のような耳を動かしていた。
そして長い鼻は夕紀を守るように彼女の細い身に回され、小さな瞳は剣呑な光を宿して射るように瑞希を見た。
顔をゆっくりと揺らすのは、あの口から生えた巨大な牙で自分を威嚇しているからだろうと瑞希は落ち着いた様子で観察をした。
そんな瑞希の心情を測ることが出来ない夕紀は、悲鳴のように瑞希に叫んだ。
「早く逃げて!!この子とても苛立ってる…っ!!」
最後の声にならない悲鳴は、夕紀の体をエルフと呼ばれた蒼い象が強引に自分のほうへ引っ張ったからだった。
瑞希にはそれが夕紀の体へ傷を付ける行為だとは思わなかったが、今まで交わした会話の中では興味深いと思う少女が、自分が居ることによって被害を被ることはあまり良い気がしなかった。
「分かった。」
瑞希はそう言うと同時に、懐から黒く大きな羽根を取り出す。
その刹那、風が一閃したかのように勢いよく吹いて、瑞希の姿は消えた。
夕紀は一瞬の退場劇を、目を見開いて見たが、後には何も残っていなかった。
夕紀に寄り添うように、長い鼻がゆったりと少女の体の回りに回される。
まるで母親に寄り添う子供のように。
夕紀はエルフの鼻にそっと手を置き、目を伏せて言った。
「ここに来る人なんていないと思ってたのに……。でも、多分もう来ないよ、ね。」
その最後の言葉にエルフは目を細めると、器用に鼻を使って夕紀を自らの背中に乗せて、のっそりと歩き始めた。
夕紀はその間にいつもどおりの気分を取り戻したのか、子守唄を歌うように優しい印象の歌を歌い始めた。
緑色に包まれた森は彼らが進むごとに生まれ消えていくのを肌で感じながら。



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